特集

神奈川県介護人材確保対策推進会議では、介護福祉ポータルサイトによる情報発信を行っています。
この特集ページでは、「テーマ」に沿った、かながわの介護福祉の情報をお届けします。

人は他者を介して人間となる
 ~当事者と介護福祉職の協働によって~

ホッとスペース中原 代表 佐々木炎

明子さんとの出会い

上田明子さん(仮名)は神奈川県内に住んでいる92歳の女性です。築40年ほどの古い賃貸マンションの1階に独りで住んでいます。同じ市内に63歳と59歳の二人の娘がいます。それぞれが家庭を築き、仕事では重責を担っているうえ、明子さんとの仲は悪く、最低限のかかわりでつながっている状況でした。明子さんの生活状況は良いとは言えず、これまで国民年金と娘さんからの金銭的支援でつつましく生活をしていました。しかし、10年前に夫を亡くして一人暮らしとなった頃から軽い物忘れがはじまりました。スーパーで同じものを繰り返し買うという記憶障害、時間や日付がわからなくなる見当識障害、外出先で迷子になり自宅に帰られなくなることもありました。家族がそんな明子さんを心配して、半ば無理やり病院に連れていくと、医師からアルツハイマー型認知症と診断されたのです。

家族は介護保険を申請し、その結果、要介護2という判定がなされました。そして、私たちが運営する居宅介護支援事業所(明子さんが自宅で生活できるように支援する事業所)へ連絡をくださり、私たちとのかかわりがスタートしました。本人や家族と話し合い、入浴をすることと人との触れ合いを持つことを考えて、通所介護(日中に通いでケアをしてもらうサービス)を週3回利用することになりました。また、訪問介護(自宅でケアをしてもらうサービス)を利用して、できなくなった掃除や洗濯、買い物などをしてもらうことになりました。

介護サービスが始まった後の明子さんは、趣味の山登りで培った脚力と持ち前の行動力で、一人歩き(通称は徘徊)で家から出かけることが再三ありました。家から外に出て、電車やバスを利用して保護されることもありました。

通所介護では、行動力があり、はっきり主張する性格の明子さんは、ややもすると周りの人たちと衝突し、利用者と口論になったり、手をあげたりといったトラブルが頻繁に起こります。机の上にあるコップ、ティッシュ等を自分の手元に集めて離さないこともあります。定期の入浴で「お風呂に入りませんか」と誘いに行くと、「入らないわよ」と入浴を拒み、なかなか入ってくれません。夕方には「仕事に行きますので帰ります。」と切迫した厳しい表情で帰ろうとすることもありました。

 訪問介護では、介護職員が自宅に訪問しても、「私は必要ないので帰ってください」と門前払いとなることもしょっちゅうでした。しかし、現実は食事が作れない状態であり、洗濯や掃除はままならない状況で、通所介護や訪問介護では、どうしたら良いか職員は困り果ててしまいました。

他者の存在、他者の世界を理解することから始める

その後も、明子さんに対して、様々な介護の努力を重ねましたが、思うような結果が得られず、思いあぐねているときにある本の言葉に出会いました。それは、サン・テグジュペリというフランスの作家が書いた随想集『人間の土地』という書物です。

「人間であるということは、とりもなおさず責任をもつことだ。人間であるということは、自分には関係がないと思われるような不幸な出来事に対して忸怩(じくじ)たることだ」

この書物は私たちに人間であるということは、家族や仲間、知人を超えて、自分とは関係がないように思える他者の不幸について心痛めることだというのです。他者の不幸は、実は私たち一人一人とつながっていて、無縁なものは何一つないというのです。人間であるということは、自分の存在がこの世界すべてに関係しているということなのです。いやもっと言えば、他者の不幸を、自分の未熟さや至らなさ、浅ましさや、さもしさによって生じたものであると自覚し、深く恥じ入るべきだというのです。

現在、私たちは自分のことは自分で責任をとる、いわゆる「自己責任」が求められる社会を生きています。自立を強いる社会が蔓延しています。でも、人間は、自分の損得を超え、介護を必要とする人を、私たちは心を寄せ、思いを巡らせ、気遣い、自分自身でなすべき務めとし、自身に引き受けて負うことが、人間のなさなければならない任務で、行動を起こしていくことを促すのです。

介護福祉職はまさに、この人間であることの意味に、実践を通して応えていくことなのだと気づかされました。介護福祉職は、老いによって誰もが自分の生活にままならなさを抱えている人と向き合います。今まで当然のようにできていた社会生活の不自由さだけではなく、日々の洗濯や買い物、排泄や入浴・・・、できなくなっていく連続で、戸惑い、困惑し、生きる自信を失っていきます。そのような状況を前にすると、私たちはすぐにどのように対処すれば良いかを考えがちですが、それはひとまず脇に置いて、問題・困りごと・困難を生じている当事者がどのような「人」であるか、他者という存在を考えることから出発しなければならないのです。

私は、介護支援専門員(介護の計画を立てる専門職)、明子さんが利用している通所介護、訪問介護のスタッフとともに、サービス担当者会議(明子さんのケアを考える会議)を開きました。私たちは明子さんの諸問題をどのように解決したら良いのかではなく、まずは、明子さんを理解(understand)しようということを話し合いました。明子さんはどのような人なのか、また何を求めているのか、明子さんの行動を理解しようということになりました。

認知症の人の本質的な問題を支える

『認知症とは、いろいろな原因で脳の細胞が死んでしまったり、働きが悪くなったためにさまざまな障害が起こり、生活するうえで支障が出ている状態(およそ6ヵ月以上継続)を指します。』(厚生労働省)。お金の扱いや、服薬や食事、生活の様々なことを一人で行うことが難しい状態です。

それと同時に、認知症の人の本質的な問題は、「それまで生きる拠り所にしていた知的能力や生活史を失い(健忘)、人間関係も失うことによって、生きる不安(存在不安)が起きることである」(室伏君士『メンタルケアの実際的原則、老年期認知症マニュアル』日本医師会)のです。

介護福祉はもちろん、個別の老いによる生活支障を支援します。でも、介護福祉はそれだけに留まってはならないというのです。生きる拠り所を失い、心理的な苦しみや不安、葛藤や怒りを理解する必要があると書かれています。人は老いの過程で、知力を低下させ、体力を失い、人間関係も喪失の連続となっていきます。生活のなかでその現実にぶつかり、徐々に自信を失い、やがて自己肯定感や自尊心も揺らいで、生きる不安(存在不安)が起きるというのです。この存在不安、すなわち、スピリチュアルな痛み(尊厳の低下、生きる意味や存在価値の喪失)が、認知症の人の「問題の本質」だと教えています。ここが支えられることがなければ生きること自体が不安で仕方がないというのです。明子さんはその苦しみにあったのです。

では、存在そのものが揺らぐ苦しみを味わう中で、私たちはどのようにかかわれば良いのでしょうか。明子さんへの向き合い方は、単に行動の問題を解決するだけではなく、スピリチュアルな痛みに向き合わなければならない、私はそのように気づかされ「忸怩たる思い」になりました。

理解のために必要なこと(個人史とその背景)

明子さんは1933年(昭和8年)、小作農家の次女として福島県の雪の降る山間部で生まれました。明子さんをはじめとする3世代、11人ほどの生活は苦しく厳しい状況でした。母親は雪の時期は年季奉公に出なければ一家は生活できないほどだったのです。そして明子さんが8歳の時のことです。家庭の貧しさのゆえに、養う家族の人数を減らす「口減らし」がありました。家の生活費の負担を減らして家計を助けるため、子どもが家から離れて奉公や養子となるのです。そうやって養うべき家族の人数を減らす一人として、明子さんは埼玉県にある商いをする家庭の養女となったのです。8歳という子どもにとって、実の母親の愛が恋しい時期にその愛を受けられないということ、そのつらさはいかばかりと思います。明子さんは、つらくて涙ばかりだったと話してくれました。

その後、明子さんは夫となる洋一さん(仮名)と結婚します。そして、2人の女の子が与えられました。明子さんは家庭を知らず、母親の存在や役割を味わった記憶がありませんでした。貧しさと学のない自分のような人生を子どもたちにさせてはならないと、子どもに対して厳しく育てました。時には手を上げたり、厳しく叱責したりすることも度々あったと娘さんから聞いています。それが子どもたちのためだと思ったのです。子どもたちは明子さんの望み通り、偏差値の高い大学を卒業しました。しかし、子どもたちの心は明子さんから離れ、疎遠となりました。明子さんと夫は京浜工業地帯の一角で小さな工場を営みました。その会社は最後まで経営は厳しくうまくいきませんでした。そして、老いを重ね、夫を見送り、認知症となったのです。

明子さんの生涯は、時代と社会に翻弄され、決して幸福だったとは断言できない人生だったかもしれません。そんな明子さんの存在を、私自身が同じ人として理解しようと歩み寄ったとき、「認知症」による問題が起きているだけのだけの明子さんではなく、90年以上を懸命に生きてきた人として明子さんを想像することができたのです。

その後、訪問介護では、明子さんの得意だった洗濯や掃除を明子さんのペースで一緒にやることになりました。明子さんの洗濯の畳み方はとてもきれいで手慣れたもので、そのたびに介護職員は「すごいですね」とねぎらいました。

また、通所介護では、明子さんの得意な調理をするグループや花を育てる活動に参加し、その中心となって役割を見出し、他者の手伝いを進んでしてくれたり、感謝されたり、承認されたりして、自身に誇りを感じるようになり、張り合いのある生活を取り戻していきました。

険悪だった娘さんたち2人は、明子さんのことで月に一度、通所介護先に相談に訪れるようになりました。娘さんは明子さんにお会いしたある日、明子さんが乳児を上手にあやしている姿を見ました。養子先で経験したことが活かされていたのです。2人はその明子さんの姿をそっと見守り、しばらくして近づきました。

「お母さん、こどもが喜んでいるね。お母さん、上手じゃない・・・」

そして娘さんの一人が告げたのです。

「お母さん、私たちにこうしてくれたらよかったのに。抱きしめ、微笑み、応えてくれたらどんなに嬉しかったか」

それを聞いた明子さんが娘さんに振り向き語り掛けました。

「そうだね。 ご め ん ね 」

そのあとの3人がどうなったかは想像にたやすいと思います。

明子さんは老いが進み、車いすになり、看取りの状態となりました。私は自宅のベッドに横たわった明子さんと2人の娘さんとお会いしました。そのとき、明子さんはベッドから右手を出しました。その手を一人の娘さんが握り返し、話しかけたのです。

「お母さん、いろいろあったけど、・・・、ありがとう。ごめんなさい・・・」

人は老いの喪失から生きる意味を探し発見する

人はいつか誰もが老いによってさまざまなものを失うと同時に、あることがはじまる時でもあると言われます。それは、認知症によって、今まで生きている中で経験し培ってしまった認知の歪み、認識の偏見、自分にある偏った判断基準・記憶が緩んだり、縛りが外れたりするというのです。また、担わされた父親とか母親などの役割のしがらみから解き放たれて本当の自分を生きるときなのです。そして、過去の苦い体験からくる感情のもつれ、怒りや怨み、憎しみから解き放たれ、人間の最も難しい「許すこと」「和解すること」ができるよう人間関係を回復し、彼の地にいくのです。介護福祉の活動は、このように老いによる苦しみの体験の中で生まれる「意味」を見出せるように支援する営みなのです。

インクルーシブ社会を創る人であり希望である

人生100年時代を迎えようとしています。ますます老いを抱えた人が増え続けていきます。多くの人が痛み、憂い、打ちひしがれていくでしょう。私たちもいつか同じように老いていくのです。ままならない日常を弱々しく歩む日がやってくるでしょう。それを今は「悲劇」と呼ぶかもしれません。でも、いつか私たちの介護福祉の活動が、老いても、認知症になっても、寝たきりになっても、障碍があっても、経済的に困窮しても、そのままの状態で誇りをもって生きる社会になったらどんなに希望があるでしょうか。

そのビジョンはすでに、介護福祉職の仕事である、排泄や食事介助、入浴や移動の介助、衣類の着替え、口腔ケア、掃除や洗濯、調理や買い物、心身機能のケア、社会生活の支援といった具体的なケアのなかで始まっているのです。

ですから私たちはこれからも、一人ひとりの意思に基づいて、具体的なケアをするのです。誰ひとりも欠けることなく、気にかけ、笑顔を向け、声をかけ、眼差しを注ぎ、話に耳を傾け、うなずくのです。このような一見すると小さな具体的な介護の働きが、人類の祈願である共に生きるインクルーシブな社会、あらゆる人々が平等に受け入れられ、共にあり、尊重する社会を創造することへつながっているのです。

私たち介護職は、互いに競争し合う社会から、互いに助け合い、思い遣る「インクルーシブ社会を創っている誇り」をもって歩んでいきたいと思います。

*追伸:私の父は農家の次男として明子さんのように養子に出されました。私は子どもへの接し方が下手な父が好きになれませんでした。でも、明子さんを通して父の理解を深めることができ、あの当時には得られなかった理解ができ、少し心が軽くなったのも事実です。介護福祉は、介護職自身が蓋をしてきたようなマイナスの出来事が、誰かの力になることで軽くなり、社会を開く力にもなるキャリアとして生かされることもあることを気づかされました。

ページの先頭へ